「真空ジェシカのラジオ父ちゃん」のアーカイブを聞いていたら、「断言しない系」の歌詞が気になるということをいじったネタ投稿がいくつかあった。代表例は以下のふたつ。
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
(中島みゆき「糸」)
「暖めるのだ」ではなく、「暖めるかもしれない」でもなく、「暖めうるかもしれない」。「かもしれない」で断定を避けているのに加えて、事実として暖めるかどうかについての可能性ではなく、そもそもその前提となる暖める能力を持っているかどうか(=暖めうるかどうか)の可能性について話している。
「挫けそうになっても」ではなく「挫けそうになりかけても」。そもそも仮定の話で、今自分が実際挫けそうになっているかどうかは断言していない。さらに、想定している状況も、「挫けそうになる」状況ではなく「挫けそうになりかける」状況という更に一歩手前のもの。
そして、それに続くのは「頑張れる」ではなく「頑張れる気がしたよ」。そういう気がしただけで、そのときがきたら本当に頑張れるかどうかは断言していない。
「断言しない系」の歌詞は、メロディにうまくのせるために、言葉を継ぎ足していった結果回りくどい言い回しになっているというだけの話なのか?それとも、この持って回った言い方でしか表現できないなにかがあるのか?
やはり、断言すると「なんでそんなこと言い切れんねん」「独りよがりだな」という聴者の反発を招いてしまうので、ちょっとぼやかしたほうが共感の得やすい歌詞になるということなのだろうか。
しかし一方で、「挫けそうになりかける」くらいまで行くと、「挫けそうになってすらいないその一歩手前の話なのかよ」というツッコミを招いてしまう。
広く共感を得るには、「根拠なき断言」と「自信なさげな憶測」のあいだのバランスをうまくとるのが大事そう。
一方で、何かをなんの根拠もなくスパッと断言してくれて逆に清々しい歌詞もある。個人的にその筆頭は「宇宙刑事ギャバン」のテーマ曲。
「若さ」だの「愛」だの人によって千差万別な理解をしていそうな抽象概念に対し、一言で「こういうことだ」と定義を与える潔さは気持ちがいい。曲の勢いもあり、気をつけていなければ「へーそうだったんだ、知りませんでした」と受け入れてしまいそう。
「全然断言しない系」の歌詞も「根拠ゼロで断言する系」の歌詞もそれぞれ個人的なツボ。今後も収集していきたい。